「責任は痛感するが、取る必要はない」ことを貫く政権に対する不信感が高まっていた頃、「これからこの国にエリートと称されるに値する人物が登場する可能性はあるのだろうか」という素朴な疑問を抱き、村上陽一郎先生に「エリートと教養」というテーマで書いていただけないかと打診したのが、2019年の1月頃だった記憶があります。かなり躊躇されていた先生が無理やりひねり出してくれた最初の原稿「エリートと教養 1 高貴なる者の義務」がまさに「我が意を得たり」だったこともあり、以降このテーマで 19本の原稿をいただき「新教養主義宣言」として公開しました。今回、この連載がこのたび、大幅な加筆・修正を加え『エリートと教養 —ポストコロナの日本考』として中央公論新社から発行されます。
村上先生からは「教養、も、エリート、もどちらも、日本社会では、正面からは扱い難い話題です。臭みがあって、自分は「教養人だ」とか、まして自分は「エリートだ」などとは、とても口に出来ない言葉、もう少し正確に言うと、自分が「教養人」であるとか「エリートである」と思っている人ならば、とても口には出来ない言葉のようです。他者に使うときも、揶揄などの否定的ニュアンス抜きでは受け取られない傾きがあります。しかし、少なくともヨーロッパ語では、<a man of culture>, <ein Mensch mit Kultur>、或いは<homme de haute culture>などの表現は、字義通りの意味で使うことができるのではないでしょうか。そんなことが気になって、これまでも、この話題の書物を幾つか公にしてきました。今回は、新書という媒体でもあり、またこの歳になっての決算という意味でも、少し風合いの違う表現になっているつもりです。そう言えば、ドイツ語に<Aussage>と<Ausdruck>という似たような「表現」があります。どちらも「(意見の)表出」なのですが、ニュアンスはかなり違います。これまでの書物が<Aussage>に傾いているとすれば、今回は私は<Ausdruck>の方を重んじた、と言っておきましょう」というコメントをいただきました。
今回の新教養主義宣言は、この『エリートと教養』を教材に、編集を担当した中央公論新社の黒田剛史さんを交え、期せずして「真のエリートが存在しない」ことが詳らかになったこのコロナ禍中に実施してみたいと思います。リベラルアーツとは異なる「教養の本質」があぶり出される講義になるでしょう。
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local knowledge 編集部(スタイル株式会社)
1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学教養学部卒業、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学教養学部教授、同先端科学技術研究センター長、国際基督教大学教養学部教授、東洋英和女学院大学学長などを歴任。東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。『ペスト大流行』『コロナ後の世界を生きる』(ともに岩波新書)、『科学の現代を問う』(講談社現代新書)、『あらためて教養とは』(新潮文庫)、『人間にとって科学とは何か』(新潮選書)、『死ねない時代の哲学』(文春新書)など著書多数。
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