エリートも教養も、日本社会では揶揄や蔑視のニュアンス抜きで語ることのできない概念と言えます。一人称の文章、つまり「私は、」に導かれる肯定的文章の用言に、「エリート」が入ったり、「教養人」が入ったりすれば、これは、噴飯ものだろうし、二・三人称で同じ形容を試みたとしても、何がなし、棘が含まれているようで、使うのに躊躇いがあり、言った後では、慌てて、貶める意味ではないことの弁解を付け加えたりする習慣ができてしまっているように感じます。
そもそも、この課題を与えられた書き始めに、このような姑息な弁解めいたことを書かねばならぬ、と感じること自体が、すでに、問題を素直に捉えられない後ろめたさがあるからに違いありません。編集側の意図は、実はエリートのための教養を、正面から論ぜよ、ということだったのに、です。
私は大学の教養学部という学部を卒業しました。したがって、学士号は「教養隠し」──おや、「きょうようがくし」と打ち込んだら、私のワードプロセッサーは、まず「教養隠し」と変換してくれました。機械さえ、教養は隠した方が利口だよ、といってくれているのでしょうか。そこでもう一度、学士号は「教養学士」なのですが、八十数年の生涯のなかで、この学士号を名乗ったことは、こうして、そのこと自体を話題にする時以外には、一度もありません。そもそも、全国に大学は数多ありますが、教養学部を持っている大学は、ほんの僅かです(最近少し増える傾向にありますが)。機会が無かったと言えばそれまでですが、そう名乗らなければならない場面を想像してみると、ひどく面映ゆい気持ちが先に立つに違いないと思います。
「エリート」はどうでしょうか。先にも書いたように、一般的にも、自分でエリートを名乗る筈はありませんが、私個人でも、事情は同じです。内心ではどうか、と問われて、これまでの生きてきた私の過去が、エリートとは無縁だ、と言ってしまえば、それはむしろ、これまでの私の生き方を可能にしてくれた両親や先生方、あるいは社会全体に、却って申し訳ない仕儀になるような気もします。
このような微妙な事情は、多少は日本の社会環境のなかから生まれる特殊なものかも知れません。特に戦後の「民主主義教育」の下で、極端に不平等を排除する、という傾向が徹底された結果の一つでもありましょう。
早くも脱線するようですが、「一票の格差」がしばしば問題になります。選挙の際の人口格差の結果生まれる問題で、憲法違反かどうかが、司法でも争われ、新聞の論調も酷く厳しいものです。しかし、一方に「代表権なくして徴税権なし」という原則があります。この原則は、アメリカ植民地が、イギリス(の王権)に対して闘わねばならぬ理由を列挙した、あの「独立宣言」で謳われている諸理由の中でも、最も合理的な論点の一つとされています。人口の少ない地域でも、納税義務が残っている以上、代表権は「平等に」認められなければならないはずです。だとすれば、人口の少ない地域で、代表者がその資格を獲得する上での得票数が、大都市におけるそれよりも少ないから怪しからん、という理屈は、「平等」の理念の過剰からくる錯誤ではないでしょうか。あの「アメリカにおけるデモクラシー」の姿を描いたフランスのトクヴィルは、自由の行き過ぎは誰にも直ぐ判るが、平等の行き過ぎは中々判らないうちに社会を蝕む、という意味のことを述べています。自由・平等・博愛を掲げたフランス革命を生き延びた貴族を出自に持つトクヴィルにして、言い得たこととも考えられますが。
はて、エリートからも、教養からも、直接には外れている話題に、些かむきになってしまいました。もっとも、「エリート」という言葉は、こじつければ選挙と無関係ではないかも知れません。英語では<elite>ですが、この語の元はフランス語(フランス語では、最初の<e>にアクサン・テギュがつきますが)、さらに元を辿れば、ラテン語の<eligere>(不定詞、辞書エントリーでは<eligo>)、つまり「選ぶ」の派生語で、意味は「選ばれたもの」です。更めて辞書を引いて見ましたら、英語、フランス語とも最初に出ている訳語は「選良」でした。今では死語、メディアでも全くお目にかからなくなりましたが、私が子供の頃は、新聞紙上、代議士はしばしば「選良」と書かれていました。ただし、ヨーロッパの伝統では、「選ばれたもの」を選ぶのは選挙民ではなくて、神にほかならなかった、と言えるのでしょうが。「特別に神に選ばれたもの」、それが「エリート」のヨーロッパ的理解でした。
「神から選ばれる」とは具体的にどういうことか。神はある人を選んで、特別の「才能」を授けます。「才能」に当たる最も普通の英語は<gift>ですが、「ギフト」はもちろん「贈り物」でもあります。フランス語では<don>が、ドイツ語では<Gabe>が、やはり「プレゼント」の意味でも、「才能」の意味でも使われます。つまり人間がある才能を有する、ということは、神から特別に「贈り物」を頂戴したことにほかならないのです。その結果、その人は、その才能の点で、衆に抜きんでることになる。それだけのことですが、神は、その才能を自分と人々のために使うことを期待して、彼(女)に才能を贈ったのですから、贈られた側は、それだけの義務と責任が生じます。それが<Noblesse oblige>ということでもあります(このフランス語は、「高貴なる者の義務」のように、熟語として解されることが多いのですが、本来は「高貴なる者には、それなりの義務を課される」という一つの文章です)。つまり、エリートとは、普通の人々よりも、より多くの、より大きな、義務と責任を背負った人間であることになります。
かつて、イギリスのオクスフォーディアン(オクスフォード大学の出身者)の平均余命は、普通の人々よりも有意に短い、ということを示す統計があった、と言われます。オクスフォード大学を了えるには、衆に優れた才能が必須であって、彼らは、イギリスでは明らかに「エリート」に属するわけですが、その平均余命の短さは、彼らが率先して危険な業務(特に軍務)に身を挺する結果であることの証左であった、と伝えられます。少し意味は違いますが、日本でも、戦前、男性皇族はよほどの問題が無い限り、軍務に就くことが義務とされていたことを思い出します。例えば、昭和時代の直宮である大正天皇のご子息たちを考えても、昭和天皇ご自身、三笠宮、秩父宮はお三方とも陸軍、高松宮のみは海軍の軍人でした。
つまり、「エリート」の定義を更めて簡潔に述べるとすれば、「普通の人々よりも、より多くの義務を背負った存在」が適切ではないでしょうか。
その「義務」とは、神と他人とのために、我が身の安泰を顧みずに働く義務です。日本では、「神のために」という件は、文化特性上排除されているかも知れません。しかし「神」を「公徳」にでも置き換えて、エリートの意味を、この定義に基づく、とした時に、密かに我が身をエリートと見做している人々は、本当にその覚悟があり、その覚悟に基づく行動を実践しているでしょうか。この問いかけは、自分も含めて、深刻な反省を導く性格のものです。
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